ながさきプレスWEBマガジン

  • Vol.33 嘉久房窯の舌出し三番叟【最終回】

    一子相伝の技を宿して…

     どこか憎めない愛嬌のある表情と、ユーモラスな立ち姿に、思わずページをめくる手を止めた方もいるのではなかろうか。ひと目でグッと心を掴むこの人形の名は、「舌出し三番叟(しただしさんばんそう)」―白磁の染付や透かし彫りなどで高い技術を誇る、三川内焼の伝統的な玩具である。くるくると首が動き、舌が出たり入ったり…。思わず笑みがこぼれる愛らしさとは裏腹に、頭部も舌も先に組み合わせた状態で焼き上げるため、制作には卓越した技を要する。「首や舌がくっついてもいかんし、噛み合わずに抜けてしまっても駄目。技は、一子相伝です」。そう語るのは、“平戸悦山(ひらどえつざん)”の名を継承し、今も「舌出し三番叟」を作り続ける〈嘉久房窯〉14代目の今村均(いまむらひとし)さん。ドイツのマイセン、スペインのリヤドロなど、陶磁器製の人形は他にもあれど、それらはパーツごとに焼成して組み合わせるものがほとんど。全て一体の状態で焼き上げる磁器人形は、世界でも類を見ないという。

     そんな「舌出し三番叟」の誕生には、こんなエピソードが伝えられている。時は1598年。平戸藩主・松浦鎮信(しげのぶ)公は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮の陶工たちを日本へ連れ帰り、中でも際立っていた巨関(こせき)とその息子・三之丞(さんのじょう)らに命じて、中野(平戸市)に窯を開かせた。しかし良い土が産出せず、転窯。三之丞は1633年に針尾島で「網代(あじろ)陶石」を発見し、さらにその後、早岐(はいき)茶市で熊本県天草より運ばれた天草陶石製の砥石(といし)とめぐりあったことで、三川内の地での白磁制作に没頭してゆく。1650年には、藩の庇護のもとやきものづくりを行う御用窯の体制が三川内に完成。そして1662年。巨関より3代目の弥次兵衛(やじべえ)が、本格的に「天草陶石」を原料に用い始め、精巧で美しい三川内焼を大成した。その功績により、藩主から名字帯刀を許され、「今村弥次兵衛如猿(じょえん)」を拝名した弥次兵衛。ところが…。弥次兵衛は色黒で猿に似ていたため、“猿の如(ごと)し”の名に心おさまらず、ぺろっと舌を出して三番叟(能・歌舞伎の演目の一つ)を舞う、この猿の人形を献上したのだとか…! しかし、その細工の面白さが、藩主はもとより侍やオランダ商人たちの間で評判となり、後に大量に輸出されることに。1867年のパリ万博では、なんとナポレオンの皇后までもが、「舌出し三番叟」を買い求めたそうだ。

     世界の人々を魅了したのは、何も昔だけではない。14代・今村均さんにもあちこちから声がかかり、豪華客船で展示されたり、イタリアで展覧会が開かれたりと、その技は世界中で評価されている。葉脈の一本まで再現された“白菜”。髭やうろこの迫力際立つ“龍”。直径わずか2ミリの竹ひご状の柱で作った籠と、つがいの鈴虫を表現した“虫籠・鈴虫”など…。今村さんが長年の修練と試行錯誤の末に生み出した手捻り細工の作品に、文字通り、息を飲まずにはいられない。
     今村さんの娘・ひとみさんがつぶやく。「1300度の炎の中を生き抜いた力強さの美なのです」と…その言葉には、父・今村さんへの敬意が滲む。実はひとみさんこそ、次なる技の伝承者なのだ。“一子相伝”が途絶えず、また新たな三川内焼の歴史を刻んでゆくであろうことに……ひとみさんの手による、ひと回り小さな「舌出し三番叟」を見つめながら想いを馳せた。

    嘉久房窯 (14代平戸悦山)
    佐世保市三川内町692 TEL:0956-30-8520

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