ながさきプレスWEBマガジン

  • 第23回 「小さな鍋島藩・神代小路をゆく」

    長崎の中の「鍋島邸」 その歴史を訪ねて

     雲仙市国見町の一画にある、「神代小路」。こうじろ〝こうじ〟でも〝しょうじ〟でもなく、〝くうじ〟と読ませるこの場所には、「旧鍋島家住宅(鍋島邸)」という国指定重要文化財の史跡がある。有明海沿いの国道251号を通るたび、この史跡への案内表示が目に入ってはいたのだが、なかなかきちんと訪れる機会がないままだった。が、しかし! 昨年10月に発売した佐賀県のガイドブック「さがたび」の制作で、すっかり佐賀県ファンになってからというもの、俄然、この史跡のことが気になるように。何と言っても「鍋島」―つまり佐賀藩なのである。なぜ、長崎県内のこの場所に鍋島邸が?折りしも2月から3月は、鍋島邸にある「緋寒桜(ひかんざくら)」が花開くとき。雲仙市観光協議会ガイド事業部の古賀さんに案内していただき、歴史のロマンがプンプン(!)香る、神代小路界隈を訪ねた。

    大通りを少し入ると… 時が止まった町並みへ

     江戸時代、島原藩が統治していた島原半島内で、唯一佐賀藩領であった神代地区一帯。「神代には、周辺の地域では使われない独特の方言があるんですよ。例えば、『来なさい=来ござい』と言ったり、『はい=ない』と言ったり。食堂で料理を注文して、お店の人が『なーい(はーい)』と言うから、別の物を注文しても、やっぱり『なーい』と言われて…なんて笑い話もあるんです」と古賀さん。歩いてまわれるほど小規模なこの一帯だけ、方言まで異なるなんて…何だか不思議で、面白い。
    屋敷  そもそも神代の地は、中世まで神代氏が支配していたが、戦国時代、肥前で強い勢力を持っていた龍造寺(りゅうぞうじ)氏の支配下に入る。のちに佐賀藩を統治する鍋島氏も、この龍造寺氏の支配下にあった。その後、1584(天正12)年に龍造寺軍VS有馬(島原一帯を統治)・島津(薩摩国からの援軍)軍の争い「沖田畷(おきたなわて)の戦い」で、龍造寺氏もろとも神代一族も滅亡。神代は一時、有馬氏が支配した。その後、豊臣秀吉の九州征伐があり、秀吉は国割りで旧神代領を鍋島氏に与える。これには、有馬領の一角に鍋島領を入れることで、有馬氏や島津氏をけん制しようという、秀吉の目論見があったのではないかとされている。
     かくして、鍋島藩領となった神代の地。当初は遠隔的な支配が行われていたが、4代目の領主からは神代に居を構え、家臣たちも居住できるよう一帯を整備。これが現在の神代小路をかたちづくった。一帯には今も、江戸・明治・大正期の歴史的な建築物や、石垣や塀などが残っており、まるで時が止まったような風情ある町並みが広がる。
     「神代にある屋敷の多くは、入り口の生垣がかぎ型になっているんです。簡単に敵に侵入されないための工夫ですね」と古賀さん。そう、神代は常に、周囲をぐるりと敵に囲まれているようなもの。小路内の道も一本道にはせず、あえて見通しのきかない枡形(曲がり角)にすることで、攻め入りにくくなるよう工夫されている。道の両脇を固める、一見何でもない生垣の細い竹や、石垣の石ころも、非常時には武器になるよう考えられていたそう。現在の閑静な、のんびりとした風情からは想像もできないが、ある意味でこの神代小路は、全体でひとつの「とりで」のようなものだったのかもしれない。

    鍋島邸の「粋」にふれる

     さて、小路の奥へ進むと、いよいよ鍋島邸の登場だ。慶応元年に完成した「長屋門」を抜けると、目に飛び込んでくる見事な邸宅!取材時はまだ、花の頃ではなかったが、それでも充分に味わい深い。と、古賀さんがおもむろに、鞄からペットボトルの水を取り出す。邸宅の玄関口に据えられた、円盤状の石に水をこぼし、何だかニコニコと嬉しそう(笑)。「ここから見てみてください」と促され、水をたたえた石盤を覗くと…キャ~!なんということ!!水面が鏡になり、ちょうど緋寒桜の木がくっきり。や、やられた~。邸宅裏の枯山水式の庭園もまた素敵で、すっかり心奪われてしまった。庭園を歩きながらふと、敷石のひとつに空いた、500円玉程の大きさの穴を指差す古賀さん。「ここに傘を差して、庭を見ながらお茶でも楽しんだのでしょうね~」。…や、やられた~(再び)。もう、こういう粋な心の全てに胸キュン。これだから歴史探訪はやめられない。
     鍋島邸は数年前から保存修理工事を行っており、長屋門をはじめ、主屋の修理も昨年末に完了。この2月からは、屋敷内部も公開される予定だ。ベストタイミングの今、長崎の中の小さな佐賀、という歴史を持つ神代小路を、歩いてみてはいかが。

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